マンションライフを楽しむMANSION LIFE
2019.08.28
江戸の長屋文化に学ぶ、共に暮らすコミュニティ形成のヒント
「向こう三軒両隣」「遠くの親戚よりも近くの他人」──100万都市と呼ばれ多くの人が集まる一方、全体の15%の土地に人口の半分が住まう超過密都市・江戸では、「長屋」という新しい居住スタイルが生まれ、長屋ならではの文化が育まれていきました。
集合住宅という点では現在のマンションの原型とも呼べる「長屋」。新しい“地縁”による支え合いがどのように生まれていったのかを振り返るとともに、現代のマンションコミュニティ形成について考えてみます。
- 岡本 綾さん
- 深川江戸資料館職員。
- 公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団
江東区深川江戸資料館 - 所在地:東京都江東区白河1丁目3-28
- 電話: 03-3630-8625
- 開館時間:
- 午前9時30分~午後5時 (入館は午後4時30分まで)
- 小劇場・レクホール 午前9時00~午後10時00
- 休館日:第2・4月曜日(ただし祝日の場合は開館) 年末年始、臨時休館
- 観覧料:大人400円 小・中学生 50円
- ※中学生以下は保護者同伴の場合のみ利用可
- https://www.kcf.or.jp/fukagawa/
「長屋暮らし」とは
─江戸時代、町民の多くは「長屋」に住んでいたといいます。具体的に「長屋」とはどのようなスタイルの住まいなのでしょうか?
岡本 「長屋」というのは、「表店(おもてだな)」と呼ばれる表通りに面した商店と、その裏手に長い一棟を区切った住居が並ぶ「裏店(うらだな)」の2つの要素によって構成されています。皆さんが長屋、といって想像するのは主に住居が立ち並ぶ「裏店」の風景でしょうか。
─「長屋」という居住スタイルならではの長所・魅力を教えてください。
岡本 一棟を薄い壁で区切っているので、良くも悪くもプライバシーがない、というところですね。隣の家の生活音やけんかの声なども筒抜けではあります。しかし、長屋暮らしの人にとってはそれが普通でした。そのお陰で、お互いに家族の事情までよく分かっており、調味料や食べ物の貸し借りまでする、密な関係が築かれていったとも言えます。日ごろから、お互いの不足を自然と補い合って生活していたのだと考えられます。
「集住」というスタイルを快適にするキーパーソンの存在
─「集合住宅」という点では、現代のマンションにも近い印象を受けますが、その共通点と違いを教えてください。
岡本 確かに「集合住宅」という点では同じなのですが、共通点の方が少ないでしょう。今のマンションはプライバシーの保たれた住居が集まった、いわば一軒家の集合体です。一方、長屋は一家族ごとに住まいが区切られているものの、セキュリティや防音という意識はなく、井戸やトイレなどは共有です。どちらかというと学生寮に近いイメージかもしれません。
─では、そのような環境で快適に暮らすためにはどのような工夫があったのでしょうか。
岡本 工夫というわけではありませんが、「大家」の存在が大きかったとみられています。現代では「大家」といえば物件の所有者を指しますが、江戸時代における「大家」は長屋の管理人を指します。地主から長屋を預かり、家賃の集金から長屋住民の身元保証、迷惑をかける住民の排除など、長屋というコミュニティを健全に運営するキーパーソンとして機能していました。長屋住民が犯罪を犯した場合は大家がその責任を問われるなど、大変な重責だったため、より一層長屋の管理に意識が向きました。
コミュニティ形成に「イベント」は必要か?
─現代のマンションでは、コミュニティ形成のためにイベントなどを行い、住民同士の交流を活発にするという試みをするところも多いです。長屋でも、住民総出の「七夕の井戸浚い(さらい)」など、協力して行う行事もあったようですが。
岡本 長屋での行事は、現代のようなコミュニティ形成のための目的はなかったようです。コミュニティという感覚は、私たち現代人が過去を分析するにあたり使っている言葉だと思います。当時の江戸の人々は、助け合うことが当たり前の生活だったので、意図せず互助の精神も育まれていったと考えるのが自然です。普段の生活の延長線上に年中行事が重なっていたと見られます。例えば長屋の住民で協力して井戸を掃除する「井戸浚え」は、七夕の風習にのっとって一斉に行われていました。協力が日常になっている人々にとっては、「コミュニティ形成のためにイベントを…」という発想はなかったのではないでしょうか。
─そういった協力し合う日常は、どのように形成されていったのでしょうか。
岡本 100万都市と呼ばれた江戸ですが、人口の半数を占める庶民が住むことができたのは、全体の敷地のほんの15%でした。人口の増加とともに、住居も効率的に圧縮されていく過程で、長屋住民の人付き合いのあり方が形成されていったものと思われます。
井戸、厠、路地など、生活スペースの多くを共有することで、自然とお互いを助け合う空気が生まれ、密な近所づきあいが生まれていったという点は、長屋生活のコミュニティの特徴ともいえるのではないでしょうか。
江戸長屋に学ぶ、災害対応の秘訣
─現代でも、東日本大震災を機に改めて防災が注目されつつあります。江戸では当時、火事が多かったと言いますが、長屋では災害時どんな対応をしていたんでしょうか?
岡本 江戸時代の265年間で大小合わせて2000件近い火事があったとの記録もあります。平均すると1年に7回前後、2~3か月に1回くらいはどこかで火事が起きていたことになりますね。江戸に住んでいる人は一生に1回は火事に遭う可能性があったのではと推測できます。現代日本では地震に対する防災意識が強いですが、江戸の庶民の防災意識は火事に対するものが大きかったようです。
普段から火の用心を心掛けていました。火事が起きたらまず家財道具を全て運び出し逃げるというのが前提だったので、住居の中には持って逃げることの難しい大きな家具などを置いている家は少なかったようです。下着から鍋釜、正装まで借りることのできる損料屋(そんりょうや)というレンタル業者を利用するのも一般的でした。
また、町ごとに木戸があり、番屋という詰所に見張りがいて、夜間に長屋に出入りするものを確認、不審者の侵入を防いでいました。外部のものが町を通るときは一人で歩かせず、拍子木を鳴らして次の木戸の木戸番に知らせる、次の木戸まで見張りが付き添って送るなど、厳重な注意をしていました。犯罪の抑制とりわけ放火防止の役割が大きかったようです。
─現代では、集合住宅火災で火元となった住戸は、隣接住戸からの損害賠償は免れることができるという「失火法」(※)があります。江戸時代は、火元になった住戸の住民は責任を問われたのでしょうか?
岡本 当時、火事が起きてしまったら、町火消(まちびけし)という消防組織が隣接する家屋を壊して延焼を防ぐ、「破壊消火」が行われていました。木造家屋なので火の子が飛べばどんどん燃え移りますから、どこかで火事が起きたら隣接する家をまず壊して、燃えないようにしなければならなかったのです。 そんな状況でしたから、放火は「火あぶり」などの極刑に、たとえ過失であっても処罰の対象となりました。連帯責任として、近隣五戸を一組とする最末端の行政組織「五人組」が罰せられることもあったそうです。
※重大な過失による火災事故の場合は適用外となります。
生活スタイルや価値観、衛生観念など、大きく異なる江戸時代と現代。両者を全く同じ感覚で語ることは難しいかもしれません。
しかし、お互いの生活を思いやる、共有スペースを通して近隣住民との絆を深めるなど、現代社会でも見習いたい「互助」「共助」の心構えは、マンションライフの一つのヒントになりそうです。